COLUMN

運命に翻弄された戦国の少年たち-天正遣欧少年使節とは

公開日:17.06.24

更新日:17.06.23

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運命に翻弄された戦国の少年たち-天正遣欧少年使節とは

 

時は戦国時代。
天正10年(1582)、明智光秀による本能寺の変によって、織田信長は自害へと追い込まれました。

大きな変革のあったこの年。

ヨーロッパへと、希望の船を漕ぎ出した4人の少年がいたことを、ご存知でしょうか?

8年もの長い間、日本を離れ、遠いヨーロッパで同じものを見て、聞いて、感じた少年たち。

彼らのことを、今回はまとめてみました。

 

ヨーロッパへ旅立った少年たち

天正遣欧少年使節は、九州の大名、大村、大友、有馬の名代として、ヨーロッパへ派遣された使節団です。

メンバーは

 

伊東マンショ(正使)
千々石ミゲル(正使)
中浦ジュリアン(副使)
原マルチノ(副使)

 

正確な年齢はわかっていないものの、大体全員が13、14歳ほどだったようです。

彼らは皆、セミナリヨと呼ばれる神学校で学ぶ、キリシタンたちでした。

 

天正遣欧少年使節を計画したのは、当時日本に訪れていたカトリック司祭、アレッサンドロ・ヴァリニャーノでした。

かの有名なザビエルが日本よりも、中国での布教を熱望する中(彼の中では、日本より中国が上位にありました)、

ヴァリニャーノは中国と日本を同列とし、非常に高く日本を評価していた人物でもあります。

彼の目的は、まず少年たち自らをヨーロッパへと派遣することで、見聞を広め、日本でもキリスト教を広めてほしい、というもの。

もう一つには、経済的に負担のかかる布教活動において、日本での布教のための経済的支援を国王に以来するためでした。

いずれにせよ、選ばれた少年たちは、自らの目で、足で、偉大なるヨーロッパを体験する機会を得たのです。

 

欧州での輝きに満ちた日々

日本を8年離れていたとはいえ、実際に彼らがヨーロッパに滞在していたのは、約1年半でした。

往復に時間がかかっており、ポルトガルのリスボンまでは、なんと2年半もかかったとのこと。

ですが、彼らはこの1年半の間に、非常に濃い経験をすることができました。

彼らは当時の教皇、グレゴリウス13世との謁見も果たしており、その後を継いだシクストゥス5世の戴冠式にも出席をしました。

ローマ市民権すら与えられた彼らは、現時でも多く取り上げられ、洋服を与えられたり、当時日本には無かった印刷の技術を学ぶ機会にも恵まれています。

キリスト教が正しいのか、間違っているのか。

それはともかく、当時の日本と比べ、技術や考え方の進んでいた宣教師たちは、人々から見て“偉い”方たちに思えていたようです。

例えば、地球は丸い、ということを、当時の日本人は知りませんでした。

そこで、宣教師たちが地球について話すと、皆興味津々と言った様子で、様々なことを質問したとのこと。

ですから、使節団の少年たちにとっても、発展を遂げたヨーロッパでの日々は驚きと、新鮮さに満ち溢れたものだったことでしょう。

 

数奇な運命へ向かって

多くの見聞を広めた少年たちが、再び日本に帰国したのは、天正18年(1590)のことでした。

すでに出発当時、覇権を握っていた織田信長は死去しており、世は豊臣の治世でした。

彼らの名代であった大友、大村もすでに死去しており、バテレン追放令すら発布されていた日本。

希望を持ち、日本にキリスト教を広めんとばかりにヨーロッパへと旅立った彼らにとっては、青天の霹靂だったことでしょう。

秀吉を前に、西洋の楽曲を演奏することなどもあったものの、時代に翻弄された彼らはそれぞれ、数奇な運命を辿っていくことになりました。

 

かつての少年たちの歩んだ道

伊東マンショはマカオで神学を学び続け、その後は九州にて活動をしていました。

ですが細川忠興により追放を受け、最終的には長崎にて教える立場へとなります。

1612年、彼は病により亡くなりますが、奇しくもこの年は、徳川家康によるキリスト教禁止令が始まった年でもありました。

 

一歩、千々石ミゲルは名を清左衛門と変え、棄教に至りました。

本場欧州で学んだ彼がキリスト教を捨てたことは、他の宣教師たちの威信を失わせるには、十分なものでした。

棄教の理由はいまいちはっきりとは判明しておらず、彼の最期についても不明な部分が多く有ります。

勉学に支障が出るほど体調を崩していたという資料もありますし、ヨーロッパの奴隷制度に不信感を示していたとも言われています。

ただ、彼は棄教しながら、その後仏教も神道も信仰せず、無神論を信じるようになったとの話もありますから、ある意味では、当時の人間としては今の私たちに近い精神を持っていたのかもしれません。

 

語学の才能のあった原マルチノは、出版、翻訳にも活動の幅を広げました。

1614年には、禁教令の敷かれる中、マカオへと出発し、現地でも出版活動などを行うこととなります。

その後、1629年に死去すると、マカオにてヴァリニャーノと共に葬られました。

生涯の師とも呼ぶべきヴァリニャーノと共に眠ることのできたマルチノ。

日本を恋しく思う気持ちもあったでしょうが、きっと安らかなる最期を迎えることができたのでしょう。

 

その反対に、壮絶な最期を迎えたのが中浦ジュリアンです。

彼は、禁教令の敷かれる中、九州を拠点に、地下で潜伏しながらの活動を続けました。

しかし、1632年には捕縛され、翌年、穴吊りの刑に処されて亡くなっています。

殉教した彼の心の支えは、あのヨーロッパで過ごした、あたたかなひと時だったとのこと。

穴吊りの刑に関しては非常に残酷な処刑方法なので、ここで語ることは控えますが、その中でも、彼はキリスト教と共にあることを選んだのでした。

 

 

教えと共に終わる者もいれば、棄教した者もいる。

同じものを見聞きしたはずの彼らがそれぞれ辿った人生は、あまりに違うものであり、興味深く思います。

まだまだ明かされていない部分も多く有りますが、戦国の治世で時代に翻弄された少年たち。

彼らのことを、少しでも多くの人が知る、きっかけになればいいと思います。